雪かきはたのしいな

 20230226

先日の雪の日、いかに「効率的に」雪かきをするかを考えている自分を、もう一人の自分が見ながら思ったことをまとめてみました。
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効率とか生産性とかは、いかに怠けるか、楽をするかという観点からのみ追求されるべきであって、もっと稼ぐとか競争に勝つとかのために追求するとろくなことにならないもののようです。
たとえば、ロボットが代わりにやってくれる仕事が増えたとしたら、その浮いた時間を分け合ってみんな少しずつ寝る時間を増やせば幸せが増えるが、ロボットのお世話係の数人だけ残して人員削減などした日には、失業者が増えるばかりで儲かるのは経営者だけ、そして周りがみんなそういう経営者だらけになったら庶民の購買力は減ってものが売れなくなり、経営者たちの首も締まっていく。結局誰も幸せにならないという、現代版イソップ童話みたいなことになるようです。(日本では失業者が増えない代わりに、非正規労働者という、3人でやっと給料1人分の「3分の2失業者」がたくさん)

今までの文明の恩恵を、「いかにみんなでごろごろ怠けて暮らすか」という方向に全力で活用していたら、いまごろはどんなに幸せな世界になっていたでしょう。
みんなでごろごろしていたら新たなイノベーションは生まれないのではないかという心配は無用だと思います。イノベーションや創造性は「心遊ばせる自由度」に比例するので、「拘束時間」とは無関係です。昔から、歴史的な大発明大発見は金と時間を持て余した貴族階級がただやりたくて勝手に成し遂げるものと相場が決まっています。
人類の持って生まれた多様性というのは驚くべきもので、ほっておいても創造性を発揮せずにいられない人というのは一定の割合でいるものです。そういう人は、ただ自由を与えておけばいくらでも発明発見イノベーションをやらかすもので、首に縄をつけてけしかければ仕事するようなものではありません。それは「選択と集中」なる世紀の大愚策で「金がほしければ競争に勝って成果を出せ、ほら早く早く」と学問の徒を鞭打つほどに競争力が落ち続けてきた昨今の大学の様相からも明らかです。
そもそも効率とか生産性とかを突き詰めると、「人間はみないずれ死ぬのだから生きるための努力は無駄、今すぐ死ぬのが最も効率的」という結論にしかなりませんから、だれもが非効率にいい加減にだらしなく生きられる社会がよい社会なのだとぼくは思います。

(以上、自分はこう思うといってるだけで、説教とか演説のつもりはありません。)

画像は「雪かきはたのしいな」キャンバスに油彩2023年


 

経済効率

 20230221

成田某さんが、経済合理性のために「老人は集団自決せよ」と言ったというニュースが世界中に広まっているようです。ご本人は「メタファーだ」と弁明してますが、どうやらそうではないことが過去の言動などからばれてしまいました。
姥捨山や口減らしをこの世からなくすために先人が積み上げてきた苦労が100年か200年で水泡に帰したとなれば、文明とは結局なんだったのかということになります。
経済効率は人間のためにあるはずで、経済効率のために人間がいるのではありません。
経済効率なんてものを突き詰めてしまったら、「すべての人間いずれは死ぬのだから、生きるための努力は無駄。いますぐ死ぬのが経済効率上は最適解」という結論にしかなりません。
ですが、その前に、全地球いきもの会議で「人類は有害だから集団自決せよ」と全会一致で議決されたと隣の猫が言ってました。

画像は「まるやち湖」 板に油彩 2023年


 

狂気を保つ

 20230216

狂気を保つというお話です。

絵を描くために必要な狂気は、たぶん致死量の半分くらいかなあと思います。

絶対に使わないことがわかっている絵具を大量にパレットに出すとか、苦労してやっと80点の出来になった画面を全部ぶち壊すとか、そういう「あーやっちゃった、どうしよう」を経ずに絵が完成することはまずありません。
壊すといっても、はじめから壊すつもりで作ったものを壊しても壊したことにはならないので、完成目指して本気で積み上げたものを壊すわけですから、それには一種の錯乱状態が必要です。

適切な量の狂気を保つ、というのは難しいです。多すぎると死んだり周囲に害を撒き散らしたりするし、少なすぎると何も生み出せなくなります。

制作中の頭の中で、どう「処理する」とか、こう「仕上げる」とか、これを「提示する」とか、「ここのバランスがー」とか、そういう、なにかを「操作しよう」「整えよう」としているときはもう だめだめ です。狂気が枯渇している証拠です。
やむにやまれぬ内側からの漏出が結果として絵になっていた、のでなければ絵ではありません。でもそれはとてつもない難事業です。

もう少し修行を積んだら、正気と狂気の間を自在に行ったり来たりできるようになるのかもしれませんが、いまはただおろおろと悪あがきを続けるしかないようです。

画像は「蛙のかくれんぼ」キャンバスに油彩 2023年


 

雪景色

 20230209

雪景色の絵を描きました。

以下はきのう思いついたどうでもいい詩

ふるさとを持たぬ旅人は、名を持たぬものばかりを拾って歩く。旅人がどんなに丁寧にそれらを拾っても、それらが世界から引き剥がされるときに傷口が少し残る。世界の側にも、名を持たぬそれの側にも。それらの傷口は、その辺を歩いている言葉を一片ずつ吸い込むことで、やがて埋められてゆく。

凍えた旅人を巨樹が匿うとき、巨樹の内なる街は、その旅人の前に一度だけ姿を現す。旅人はその街を、名を持たぬものたちでなみなみと満たす。
一度そこから出た旅人に、巨樹は二度とその街を見せることはない。旅人はただ、翌春にその傍らを通るときに、樹の中に手を差し入れて、内なる街に触れることができるだけだ。

名を持たぬものたちは、名付けられてしまうことを恐れている。旅人だけがそのことを知っている。だから、名を持たぬものたちは、本当は旅人の手に「おかえりなさい」と言いたいのだ。だが言葉はもう残っていない。旅人が樹の上に放り投げていった言葉たちは、もう雪と一緒に溶けてしまった。