20230114
日本語の「正義」という言葉の意味が変わり果ててしまったのではないか?というめんどくさい話を書きます。どうかどうか読んでほしいです。
最近は、「正義」と口にしただけでもれなく揶揄嘲笑が飛んでくることになっていて、「正義を振りかざして」という皮肉り方とか、「正義の反対は別の正義」というへんてこ理論とかは今や日本名物であるようです。
ですが、昭和時代の「正義」の用法からいうと、立場が変われば「正義」でなくなるようなものは最初から「正義」ではなかっただけのことです。誰がどんな立場にいようとも踏み外すべからざる普遍的なる道のことだけを「正義」と呼んでいたはずなのです、かつては。
ですが、それがいまや、意見Aと意見Bがありますねとか、AさんとBさんの利害が対立していますねとかいうだけのことにわざわざ「正義A」対「正義B」のように軽々しくこの言葉を割り当てることによって、「正義」という言葉の意味がどんどん薄まっていった。そのために、昭和日本語の「正義」という言葉が指していた概念を言い当てられる単語が令和日本語の中には存在しなくなった。存在しなくなったならそれに代わる新しい語彙が出てくるべきだった。なのに、それは一向に登場しない。
そして、そのせいでしょう、「正義」を口にすることは不寛容でかっこ悪くて恥ずかしいことのようにされてしまった。正義を主張する人に対しては「正義を振りかざして相手の正義を叩いとるわー」「正義が人の数だけあるのを知らないのねー」などと茶化して笑いものにするというマナーがあふれ返ることになった。聞くことは聞き、言うことは言い、必要とあらば情理を尽くして説得するという「対話」の姿勢はもはや絶滅危惧種です。
けれども、ですよ、
困っている人を助けるべし
相手の人権を尊重するべし
強者が自分の持つ力を弱者を虐げるために用いるべからず
差別とは闘うべし
私怨を晴らす手段として暴力を用いてはならない
ごみ箱が遠いという理由で空き缶をポイ捨てするべからず
食堂でひとりで100人前のラーメンを、お金を払うんだからいいでしょうといって注文しようとする人がいたら引き止めるべし
などなど、ぼくの足りない頭を絞るだけでも、昭和日本語の意味での「正義」の具体例はいくつも浮かんできます。昭和日本語で「正義」といえばこうした概念を誤解の余地なく言い当てることができる。ところが、令和日本語にはそれを言い当てられる単語の持ち合わせがないから、つまり、ただ「正義」と言ったって「正義なんて人それぞれですからねー」で終わってしまうわけだから、いちいちわざわざ「誰がどんな立場であろうとも踏み外すべからざる普遍的な行動規範と価値基準」などと説明しなければ通じない。「善」や「道徳」も同様。
こんな言語が日本語以外にあるでしょうか?
ある概念が、名前を失った。これはその言語の話者にとって、その概念が存在しなくなったのと同じことです。今回のこの事態は、令和日本語話者の身に致命的なセキュリティホールができたようなものです。
ある国では高校から哲学の授業があって、「絶対的な正義は存在するか」などという問題を徹底的に考えさせる(教えるのではなく)という話を聞いたことがあります。
片や我が国では、グローバルなんちゃらを生み出す先進的な教育とかなんとかで小手先のディベート術を生徒にけしかけるのがはやったりして、哲学なしでこれをやってちゃあ、
言い負かせば勝ち、黙らせればOK
ばれなければセーフ
制度の隙を突いてかすめ取れ
正直者を狡猾に出し抜いて勝者になれ
みたいな風潮になるのも当然です。これは「正義」という語彙が毀損されてかつての地位を失ったこととも関係があるのではないかしら。
いつもいつも、問題を指摘するばかりで、じゃあどうしたらいいのだーという処方箋が見つからないのが歯がゆいところです。が、できるかぎりの悪あがきだけはしておかなければと思っております。
ところで、「正義に正解はない」の例としてよく持ち出される、あの有名なトロッコ問題について。
ぼくは、「わーどちらも避けたい、でもどうしたらいいんだーなにか方法はないのかーと、煩悶を最後まで続けること」が正解だと思っています。
最後までご清聴ありがとうございました。
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