「芸術の持つ力」と「学問の自由」について

 20201013

橋下徹が人文系の学者を「こやつら」呼ばわりしたあげく「社会に対して何の貢献をしているのかわからん仕事でも学問の自由の名目で許される。もう少し謙虚になれ」などと寝言をおっしゃり、それに「いいね」が1万以上ついてたりするので、これは微力ながらきちんと反論を表明しておく必要があると感じてこの文章をしたためております。
そもそも橋下とか堀江なんとかとか竹中平蔵とかいう連中のいうところの「社会に貢献」とはなんのことをいうのか?あるべき理想の社会の姿を彼らが自分の言葉で一度でも語ったことがあるでしょうか。彼らは、まっすぐ地道に暮らす善良な人たちを狡猾に出し抜いて勝者となれと、ただただ弱肉強食をけしかけているだけではありませんか。こういう彼らがどう愚劣なのかを教えてくれるのがまさに「社会に対して何の貢献をしているのかわからん」学問であるのは皮肉なことです。

芸術は、ほんとうはその「役に立たなさ」にこそ価値があるのですが、ここではそういうわけで、あえて芸術の持つ力について考えてみます。ここで言っていることは、芸術だけでなく人文学・基礎科学のような「社会に対して何の貢献をしているのかわからん」学問全般について、全く同じように当てはまります。

結論からいえば、芸術が持つ力とは、「疑う」力、そして「問いを立てる」力だと思います。それを失った人で溢れかえった国の末路は、今の日本を見ていればそのうちわかる気がします。
いま、世の中では「役に立つ」勉強がはやっていて、自己啓発本が売れたり、なんとかセミナーが繁盛したり、学校では有能な企業戦士になるための就職予備校よろしく「実学」が奨励されたりしています。ここでいう「役に立つ」とは、せいぜいお金が儲かるという意味にすぎませんが、そういう種類の知が養ってくれるのは「システムに適応する」力、「答えを見つける」力です。つまり就職できたり売上が増えたりして「勝者となる」力のことです。
一方で、望遠鏡で星を見たりニーチェを読んだりしていると穀潰しの役立たずと罵られるご時世ですが、こういった「なんの役に立つのかわからん」種類の知が養ってくれるのは、「システムそのものを疑う」力、自分で新たな「問いを立てる」力です。これらは、翌月の収入を増やす力はありませんが、百年後の世界を変える力を持っています。
本来の知性とは、知る喜び、未知への憧憬です。金儲けの能力のことではありません。アルキメデスを「ユーリイカ!」と叫ばせ風呂から飛び出させたのは純粋な発見の喜びであって、「これでヒエロン二世に褒められて出世できる!」ではありません(たぶん)。知る喜び、未知への憧憬をもって世界を見れば、足元の一枚の落ち葉にさえ無数の小さな問いを見出すことができます。問いの内容はひとりひとり違うでしょう。ですが、そいういう小さな問いの積み重ねが、「生きるとはなにか」「自分は何者か」というような大きな問いを一段高いところから見つめるための足がかりになるはずです。
将来についての予測不可能性はどんどん高まっています。その予測精度を上げることはどうやっても不可能です。それは、くだらぬことで乱高下する株式市場に一喜一憂する賢い(はずの)富裕層をみるだけでもわかります。ですが、一見人生と無関係の学問でも、勉強すればするほど、将来の何がどのように予測不可能なのかについて、おのれのイメージを拡張することができます。いいかえれば、自分は世界の何をどのように知らないのか、を知ることができます。それはちょうど、日本の中にいるだけではわからなかった日本文化の特質を、海外の文化に触れてはじめて思い知るのと同じことです。そしてそのような目を持つことが、自分が世界のどこにいるかという地図と、これからどうするべきかという羅針盤を得ることになるのだと思います。
地図の獲得がまた、たまたま出現しなかったけれどひょっとしたらあり得た別の世界について思いを馳せる想像力にもつながるでしょう。現状に適応するのに精一杯の生活の中でも、あのときあそこでこうしていたら今とはちがう別のこんな世界やあんな世界だってあり得たはずなのだとありありと想像する力は、現実世界そのものを疑うために必要な力です。そしてそれは人間にとって本質的に不可欠なものではないか、と思うのです。現実世界をよりよい方向に変えていこうとする意志はそこからしか出現のしようがありません。それがなければ人間は知恵のついた猿とどう違うのでしょう。そういうわけで、芸術を含む「なんの役に立つのかわからん」ような知性こそ、人間を人間たらしめる本当の叡智であり、百年後のよりよい世界を築く力の源泉なのだと思います。