教養

 20250116

ここ4、5年で痛感するのは、
実利と無関係に見える「教養」にも、
うさんくさい情報をうさんくさいと感じる「嗅覚」が発達したり、
不確実な情報を「真偽未決」としてぶら下げたまま歩く「体力」を得られる、
という効用があることです。
もちろんそんなのは二次的な副産物であって、教養の本当の役割は
《「未知への憧憬」や「知る喜び」が人間を人間たらしめる》
というところにあるのは言うに及ばす。ですが。

そこでですね、聞いてください、
こないだNHKで高校生向けの「現代の国語」という番組を見てみたら、テーマが「面接の極意」、就職活動のプロによる模擬面接に挑戦!だって。この世の終わりを垣間見た気がしました。国語の時間まで企業戦士養成所の下請けになっちゃったのですね。
人間の形をしたなんかへんな生きものが政治を牛耳るようになったから、人間を人間たらしめる教養も不要になったということのようです。
手遅れになる前に、教育をはやく立て直さないと。

画像は「ひみつの村」(部分)
2024年、板に油彩


 

笛鳥

 20250107


ある日、お腹の上で猫が眠り始めたので動けなくなり、仕事をさぼって頭の中でつくった詩です


草むらに置き忘れられた縦笛は
血と肉を得て鳥になった

鳴りたいときに勝手に鳴る笛だから
鳥になっても好き勝手に鳴りながら
好き勝手に歩いた

もともと笛だから
故郷も家族もない
仲間を欲しいと思ったこともない

けれど樹とは何となく親しくなった

星たちの匂いが満ちて
こだまや岩が目覚める季節になると
樹は高く低く鳴る
すると笛鳥も鳴る

ふたりの合奏は
互いに合わせるでもなく
てんでに鳴り
終わりたいときにてんでに終わる

やがて季節が移ると
鳥は雪解け水の流れを越えて
どこかへ飛んで行った