温暖化とか、冷笑おじさんとか

 20230806

ちょっと前までは温暖化は「本当に存在するのかどうか」が議論されていたと思うのですが、やがて温暖化を「どう食い止めるか」、そしていまは ”12万年ぶり” の暑さ(熱さ)の地球で「どう生き残るか」へと、議論の中心があっという間に移っていきました。
ちょうど、「アベノミクスは害か益か」とかやっているうちにどんどん経済が落ち込んで、それを「どう食い止めるか」となり、やがて「どう生き残るか」へとみるみる変わっていったのとまったく同じです。

一部の環境活動家たちがやっている違法な破壊活動をぼくは称賛する気はありませんが、心境には同情します。かの若者たちはもの好きや道楽でそれをしているのではもちろんなく、むしろ、言葉の通じない幼児が意志を伝えられずに癇癪を起こすのに似ています。そして、彼らの場合、言葉が通じないのは、彼らの幼さのせいではなく、彼らの声に「大人の事情で」耳を塞いできたわれわれ大人の責任です。その反省なくして彼らの行動に眉をひそめる資格はない。

取れるはずの対策を取らなかった、のみならず、やってはいけないとわかっていることを目先の欲のためにやってしまう、というのは温暖化でもアベノミクスでもまったく同じ。(もっといえば五輪も万博も原発もマイナンバーも、現政権のやることはひとつ残らずそうだと言いたくなります。)

そこで思い出すのが、以前聞いた、縄文時代のあるお話です。
縄文人にとって猪は大事な食料のひとつで、貝塚からはたくさん猪の骨が出土します。
ふつうは成獣の骨しか出てこない。こどもは将来のために生かしておく。けれど、環境なり状況なりが変わって余裕がなくなってくるとこどもの骨が出てくる。飢えるから、こどもの肉もやむなく食べるのでしょう。そして、そういう集落はみんな、ほどなく消滅している。というお話でした。

「いま」ゆとりがなくて「将来」のための行動がとれない。「いま」の日本もまさにそういう状況です。(ただでさえそうなのに、史上最も言葉の通じない政権が防衛だ中抜きだ海外支援だといっては散財をして拍車をかけている。)
温暖化や円安ばかりではない、教育、少子化対策、研究、といった「将来」のための予算はことごとく後回しにされ、地方の貴重な文化遺産なんかも維持管理の予算がないから弊履の如く朽ちるに任され、つまりは国ごと、タコが自分のどの脚を食べるかみたいな議論の海をぷかぷか漂流している。
その結果、余裕も「悩む力」も尽きて言葉も通じなくなった「冷笑おじさん」が巷にあふれる。彼らは、手を伸ばせば届くところで溺れている人に、あなたの掴んだ藁がなぜそんなに小さいのかをニヤニヤしながら滔々と語る。気の利いた揶揄嘲笑を連発する「人気冷笑おじさん」を喝采しに行かなければならないから忙しいのよ、ではさようなら。そんな、心のない集団になり果ててしまった。

ぼくが先日、「芸術の本質は悩む力だ」とか偉そうなことを抜かしたのは、こういう現状に憤りを感じるからです。
悩むべきときに悩むのをやめてしまった人、けれどそう見えるのは恥ずかしいからすべてを高所から俯瞰して達観しているかのように振る舞う人、「できない理由」を並べるのに忙しい人、こういう「冷笑おじさん」ほど不要なものはこの世にそうそうないのではないでしょうか。

などとぷんすかしながらも、お口直しに森の散策路を歩いていると気持ちが鎮まってきて、さてーいい絵が描けそうだぞーと思えてくるので、さすが、自然の力は46億歳だけのことはある。
ひとり自然の中に身を置く、ということは、嘘の通じない相手と対峙するということです。これをやらなければ人間はどんどん狂っていくもののようです。「自然」と「孤独」と、どちらが欠けてもいけない。

いまやたらと樹を切りたがるどこかの国の政治家はひとり残らず3年間、森での一人暮らしを義務づけたらいいと思います。

画像は「巨樹の内なる街」(部分)2023年 キャンバスに油彩