ゲルニカ

 20220501

プーチンの非道に対して、不十分とはいえ国際社会がここまで結束して制裁ができるとは、2月にはまったく予想していませんでした。これができるなら、チェチェンのときだってシリアのときだって今回のように制裁できたはずではないか、やっていたら今回のウクライナ侵攻はなかったのではないか。
最近の香港問題やミャンマー問題にも同じことがいえると思います。かの国々に対してろくな制裁も説得もしようとせず見殺しにしている(のみならずミャンマー国軍の軍事訓練をしてあげている日本のような国まである始末)代償は将来もっと大きな暴力となって返ってくる気がしてなりません。
一方、米英のイラク侵攻なんかになると、その圧倒的な力による非道に対して当時そもそも誰か効力のある制裁をできる者がいただろうか、やはり「道理」は「力」には勝てないのか、と暗澹たる気持ちになります。

今回のプーチンの「力」による暴挙は、さすがに国際社会も今度ばかりは「道理」を勝たせておかなければならないと考えるほどに、行き過ぎていたということでしょう。ですが、今回もし「道理」が勝ったとして。それは「道理」が「道理」であるがゆえに勝ったのではなく、「道理」に「力」を与えることができたから勝てたに過ぎない。(制裁も「力」の行使の一種ですから。)
つまり、やはり勝つのは「力」だということです。

「道理」が「道理」であるがゆえに勝つ、という現象が起きうるのは、当事者全員が「道理」は「道理」であるがゆえに勝つべきだという価値観を共有しているときだけでしょう。

勝つのは「道理」ではなく「力」であるという不条理な現実があるとして、だから自分も「力」を持とう、というのが右翼。「道理」が勝つ世界に変えよう、というのが左翼。
右翼の論理は「力」には「力」を、という堂々巡りで出口がない。さりとて左翼の目標はどうしたら達成できるのか誰にもわからない。
だから、どちらが正しいか、という議論に意味はない。
だいたいの人はその中間のどこかで、説得や駆け引きやときには恫喝を駆使して上手に立ち回って泳いでいこうとする。それが一番適応的な行動でしょう。
その中で大事なのは、現実の不条理に対して、ちゃんと「煩悶」しているかどうかなのだと思います。煩悶なき右翼はただの暴力集団だし、煩悶なき左翼はただのお花畑です。
心配なのは、憲法9条を嘲笑する人に「煩悶」が感じられないこと。
煩悶なきヤクザに憲法9条をいじられるのはぼくは耐えられません。
答えのない問題について煩悶し続けるのはエネルギーがいるものです。それをさぼって「わしは冷徹なリアリストだから不条理な現実にも動じないのだ」という体裁で威勢のいいことを断言してみせるほうがよほど楽だしなんかかっこよくみえます。でもぼくはそういう人を信用しません。

今回の戦争によって世界中が右傾化するのは避けられません。日本なんかは安倍一味が今がチャンスとばかりに軍拡論を叫んでいます。今夏の参院選はまちがいなく自公が圧勝するでしょう。なにしろ昨年あれだけの腐敗やコロナ失政を満天下に晒したにもかかわらず彼らは選挙でびくともしなかったのですから。
もしみんながほんとうに軍拡を望むなら軍拡はしかたありません。でもそのために自公政権を選ぶということは、あの腐敗と慢心と改竄と虚偽と隠蔽と格差拡大路線と経済破綻と教育崩壊と拝金主義と民主主義破壊と無能外交と反知性主義と強権的弾圧と(中略)とがもれなくついてくるということです。これらはたぶんどれも、みんなが望んだものではなく無関心が招いた副産物に過ぎません。
そして「自公政権による改憲」という悪夢が迫ってきます。自民党の改憲草案では、基本的人権が縮小されていたり、独裁を可能にする小細工が仕込まれたりしています。ただ「現状に即して自衛隊を明記しましょう」というようなものではないのです。彼らは本当の意図を後ろ手に、無害な表向きの能書きばかりを電通的手法で宣伝し、右傾化の潮流に乗って危険な改憲をするでしょう。「ナチスの手口に学べ」といった麻生の言葉そのままに。

ところで防衛についていえば、ぼくは軍拡を叫ぶ前に、戦争を避ける外交努力はいうまでもなく、食料とエネルギーの自給についてもっと真剣に考えるべきだと思います。それがほんとの国防です。そのための予算こそがほんとうの「防衛費」です。

もちろん野党が政権をとったら腐敗や失政がなくなるという保証はありません。けれど、政権交代はありうるという緊張感なくしてよい政治はありえません。

というようなことをぐるぐると考えながら生まれてくる作品がなぜ「ゲルニカ」のようにならず亀や蛙なのかなあ?