草にすわる

 20220326

ぼくの好きな詩にこんなのがあります。

わたしのまちがひだつた
わたしの まちがひだつた
こうして草にすわればそれがわかる
(八木重吉「草にすわる」)

人を思索の深みに誘うのはいつの世でも「自然」と「孤独」だ。どちらか片方ではだめで、両方がいる。孤独だけが思索を深め、自然だけが思索の向きをまっすぐに直してくれるからだ。

けれど、ちかごろは「共感」とか「絆」とかが大事になりすぎて、孤独は排除されるべきものになってしまいました。「孤独をも恐れぬ信念」なんてものは、「そんなものでは生き残っていけませんよ、ほらポジティブにみんなと仲よく、すまいるすまいる!」と処世術指南の先生から笑われるような絶滅危惧種となりました。

一方、「孤独をも恐れぬ信念」があろうとも、クレムリンのかの独裁者には深い思索の境地が訪れることはなさそうです。それはもしかして、座っているのが宮殿の椅子で、草の上ではないからでしょうか。

停戦交渉や国連の会合はぜんぶ草の上でやったらどうでしょう。

というぼくのぼやきを、全然きいてくれない亀3匹と、「なにをお花畑な妄言をぬかしてやがる」という顔できいてる亀1匹 (2022) 紙にアクリル