いたたまれなさ

20191128
ぼくには、ある理由から高校卒業以前の記憶がほとんどない。それでも小学校のころのことなら両手で数え上げられるくらいのわずかな断片が残っている。そのなかでも強烈な印象として思い出されるのが、夜空の星を見上げたときのいたたまれなさである。
たぶん小学校高学年くらいの頃。真夜中に家の屋根に登り、凍えた手を握り歯をがちがち震わせながら、星空を眺めた。星が好きだったわけではない。ただ、この星たちが何光年何百光年の距離から光を放って、それがいまやっと自分の目に届いているという不思議がどうしても胸から離れなかった。
屋根から見下ろす真夜中の街はとても静かだったが、それでも少しは動いていて、明かりのついた窓があったり、ずっと遠くで車の音がすることもあった。そしてそのあとは、屋根の上の自分の耳に届くのは、何の音という名状のしようもない、ただ「音」としかいいようのない不思議な音だけだ。絵具の色を全部混ぜると変なひとつの色になるように、街中のかすかな音を全部拾い集めて混ぜ合わせた、 不思議なひとつの、始まりも終わりもない、ささやくような音だった。昼間よりもずっと遠くから聞こえてくるその音を聞きながらこれまた遠い星々を眺めているうちに、自分がいま本当に生きているのかどうかもわからなくなって、このまま屋根から落ちて死んでもいいような気になって、いたたまれなくなった。そして逃げるように家に帰り布団にもぐり込んだ。
その自分がいま、こうして八ヶ岳のふもとに流れ着き、ひとりで森を歩いていると、あのときのいたたまれなさがありありと蘇ってくる。森は、太古から続く果てしない営みの結果できあがった、途方もなく巨大な構造体だ。この営みに従事してきた無数の動植物、微生物、風や光や原子や分子の何億年もの歴史を想像せずにいられなくなる。そして、あのときと同じように、自分のちっぽけさに気が遠くなり、いたたまれなさが我が身を噛む。もしかしたら、この「いたたまれなさ」こそが自分の創造の源泉なのか、とも思う。このいたたまれなさを忘れることができたとき、自分の創造の試みは成就するのだろう。それが幸せかどうかはわからないけれど。