古典の日

 20261101

11月1日は古典の日だそうです。
が、古典の勉強なんか無駄だという声が日に日に大きくなってますね。
古典の授業が無駄だと感じたとすれば、それは、先人の叡智から現代の自分を照らし見る体験をしそびれたということでしょう。数学が無駄だと思ったとしたら、それは自然の摂理の不思議さに感動し損なったということでしょう。そうだとしたらそれはもったいないことでこそあれ、無駄だ無意味だと決めつける理由にはなりません。

古典が何の役に立つか?
たとえば千年前と今とで、人の心のどこが違ってどこが不変なのかを知っておくことは、明日出会う未知の前でどう振る舞うべきかを考える大きなヒントにはなると思います。でも、「これは何の役に立つか」という問いに対して「こういう役に立つよ」と答えることは、「役に立つ場合に限り存在を許してやる」という相手の土俵に乗ることになるので、あまり愉快なことではありません。

どれだけ役に立つかを基準に学問を序列化したがり、漢文が無駄だ因数分解が無意味だとわざわざ口に出すような人は、「無駄な学問はやりたくない」「最短距離で目標に到達したい」という了見で生きているのでしょう。そうだとしたら、そういう人の言う「役に立つ」とは「弱肉強食の世界で強者になる役に立つ」という意味であって、「弱肉強食の世界の他にどんな世界が可能であるかを想像する役に立つ」ではなさそうです。ちなみにこの想像力は動物と人間とを分ける境界線でもあります。

そもそも学問は、ソクラテスの時代から、役に立たせるために学ぶんじゃなかったはずです。
世界がどのくらい知り尽くしようのないものなのかを知り、世界の底知れなさに戦慄するために学ぶのだとぼくは思います。
己がどう役に立たないかを思い知り、
己の周りに広がる未知の森がどれだけ大きいのかを知り、
己が、その広大な森の中のどの場所にぽつんと無力に突っ立っているのかを知るためにこそ学ぶのが学問です。

そこを学びそこねると、新しいわからなさに出くわしたときにどう振舞ったらよいかがわからない。わからないことを「わからない」と認識する能力も獲得できないし、わからなさを抱えたまま歩く体力も育たない。間違いに気づいたときに軌道修正する胆力も生まれない。そういう人が大臣になって、すべてを知り尽くしているかのように自信満々に断言し、反論相手を黙らせればこと足れりとするのを誰でも見たことがあるでしょう。

わからなさを前にどれだけおろおろできるか、どれだけのわからなさを抱えたまま歩く力があるかは、人間の知性を測るものさしのひとつでもあると思います。

ところで矛盾することを言うようですが、授業をさぼって河原に寝転がり一日中雲を眺めるという「自分との対話」が、ぼくは一番根源的な学問のような気がして、好きです。「授業をさぼって」の部分がミソです。休みの日では効果が半減するのが難点です。