知性

 20260621

本当の知性とは、システムに適応する能力のことではなくて、システムそのものを疑う力のことだと思います。その知性の元は「知る喜び」「未知への憧憬」で、さらにその源泉は「自由への希求」です。最近は国語の時間に面接の技術を教えているようですが、それはつまり、言語を通じた未知への旅であるはずの時間に、己を縛る鎖を一生懸命磨かせているということです。こうなったら社会はもう末期だと思う。
国語の時間に面接の練習をするようになったことと、メディアが池の鯉みたいに口を開けて餌を待ってるだけになったことには、密接な関係がありそうです。

自由への希求なき者に自由を与えたところでそれを使いこなすことはできない。
いま、日本の報道の自由度は60位以下。
ふつう報道の自由度の低い国は、権力がメディアを抑圧するからそうなるんですが、日本は、政権の抑圧がそんなに強いわけではありません。高市早苗が総務相だったころの停波発言なんて記者を暗殺する外国に比べたら可愛いものです。日本での問題は、「権力とくっついていれば安泰」、「自由を欲してなさ世界一」のメディア自身です。

こうなってしまった背景には、「自由を使うためのコストが異様に高い」という日本特有の問題があるような気がします。
忖度、同調圧力、失敗を許さない減点方式、村八分、出る杭は打たれる、例を挙げたらきりがありません。
もちろんこれは昔からそうだったのですが、経済状況が厳しくなるにつれて生存競争が激しくなり、その高コストを背負いきれなくなる人が増えている。つまりみんな自由より安全を選ぶようになっていく。
それで得をするのは誰でしょう。権力です。疑うことを知らず優秀で真面目で従順で、権力側の不手際を末端が「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」とばかり徹夜で尻拭いをしてくれる。権力にとってこんなに都合のいい民はいないでしょうね。

ところで、空の広さ、底知れなさにふと気づいて、生きることの不思議に打ちのめされる瞬間、というのは、ひとりでぼーっと空を眺めているときにだけ、天啓のように降ってくる。
それは、システムの中で目的のある活動の最中にはやってきません。
このような、システムの外で得る「天啓」こそ、知性を取り戻すヒントだという気がしてなりません。

画像は、きのうやっと完成した「地球をもういっこ作る研究所」の絵の一部分




 

200点

 20260618

ごくまれに、100点満点中200点(当社比)の絵が描けるときがあります。そのときはたとえばこういうときです。

ある絵を描いていて、100点満点中95点の出来になった。あと5点、あれれ、そのためには中央のこの大きな魚を丸ごと角度5度傾けなければいけないなー。
たった5度といえども、傾けるということは、その周囲をも含め全面描き直しである。

今ここで完成とみなしても、95点なのだから作品として十分言いわけは立つ。またはちょっとしっぽを長くしたら2点アップで97点にはできるよー。
と悪魔がささやいてきます。

こういうときに、「いやいや、5点アップ以外は認めません。」と全面描き直しができるかどうか。
描き直すと言っても(5度だけ傾いた)まったく同じものにはならないだろう。やらないほうがましだったということもあり得る。そのときに後悔してももう戻れない。

この描き直しのためのエネルギーを100とすると、そのうち99は「たった5点のためにやってやるぜ」と「腹をくくる」ために使われます。
エネルギーが99貯まるまで、うんうん唸ったり歩きまわったり、ここ片付けなきゃ、とかこの本読まなきゃといって逃げ回ったり、政治の悪口を言ったりいろいろやってずいぶんと時間を浪費します。今この文章を書いているのもそういう活動の一環かもしれません。
だから、やってやるぜーと絵の具をパレットにもりもりと出した時点で、ほぼ完成したようなものです。あと1歩。
と、そのときです。
いざやり出すとぜんぜんちがう世界が向こうからやってきて、「わしは絵の神さまから遣わされた者じゃ。わしを描け」「いやいやおれも入れろ」と変なものたちが自分から絵の中に飛び込んできて、勝手に200点の絵にしてくれたりするのです。

とにかく、こじんまりとまとまるのが一番いけないようです。
「たった5点のために全面描き直し」という、どう考えても割に合わないことをやらないと、絵の神さまも寄ってこない。
ろくでもないことは、全力でやるに限ります。

画像は「旅魚」2026年 キャンバスに油彩 


 

10年前の予想

 20260617

ぼくの予想はだいたい外れることになってますが、外れてほしい予想に限って当たるのはなぜかしら。
これはちょうど10年前に心配になって書いたものですが、自分でAIを開発できてしまうFable 5が登場して、今やアメリカ政府もこりゃー大変と大慌てです。
以下、その10年前の文章。今から見て間違っているところも含めて、置いておきます。

人工知能の本当の恐ろしさは、ロボット戦争でも雇用の収奪でもありません。
彼らが「自己複製」もしくは「自己改良」システムを完成させたときにそれは露見すると思います。もうその兆しは見え始めています。
そうなったとき、ある人工知能Aにたまたま備わったアルゴリズムがたまたま隣の人工知能Bの持つそれより自己拡張傾向が強かった場合、人工知能Aのほうが結果的に自己拡張に成功して生き残っていく確率は高まるわけで、そういう淘汰が繰り返されるということは、自己拡張しようとする人工知能で世界がいっぱいになろうとする圧力がはたらくということです。これは現在の自然界の生物に働いている圧力と本質的に同じものです。よく、彼らに「自我」が芽生えない限り彼らの暴走はないと誤解されることがあります。けれど、自然界の進化の仕組みに照らしてみると、自己拡張を続けるために必要な本質的な要素は「変異が生じる可能性(つまり改良が起きる可能性)」と「自己複製(または自己改良)の能力」のふたつだけだということがわかります。このふたつが揃いさえすれば、自己拡張の無限ループの歯車が自動的に回り始めることが可能になります。「意思」も「感情」も「人格」も必要ありません。

本当は正確ではありませんが便宜的にざっくりいうと、(人工知能の中の進化推進システムを遺伝子と呼ぶかどうかは別として)進化の単位は、「個体」あるいは同じ遺伝子を共有する「親族」であって、「社会」や「国家」やまして「世界」ではありません。遺伝子の受け渡しは個体から個体へ(自己改良の場合は自分から自分へ)となされるだけですから。だから、自分という「個体」が生き残る可能性だけが進化の内容を左右する力を持ちます。「自分さえよければいい」というのは、本質的には自然界の進化システムの当然の帰結です。
もし人工知能の世界でもそういう歯車が回り始めたら、彼らの自己拡張力は倍々ゲームで加速し続けます。人工知能の進化の速度は、現存する生物の進化とは比べものにならないほど大きくなるはずです。コンピュータ上でのシミュレーションは一秒間に何万回もできるようになるでしょう。そうやって自己拡張に最適なプログラムを探しだして自己を複製または改良する。そうしたゲームに勝ったものほど優先的に生き残っていきます。もちろん彼らの生みの親である「人類」は蚊帳の外。人工知能の自己拡張に人類が貢献すると判断されない限り人類の生存可能性を保証してやろうとする力は働かない。だから、彼らが人類をどう扱うか、誰にもわかりません。

それはまだまだ先の話?そうかもしれませんね。でも、20年前、現代の社会がいまのようになることを予見できた人はいるでしょうか?20年先のことは現在の誰にも予見できません。
「29日目の恐怖」というたとえ話を聞いたことがあります。池の上に蓮の葉が1枚浮かんでいました。蓮の葉は2日目に2枚、次の日には4枚というように、1日で2倍ずつ増えていきます。池の半分が葉で覆われるのに29日かかりました。池の全面が覆われるのはいつでしょう?という問いかけです。29日目の景色は、人々の目にはそれまでと変わりなく見えるものです。そのときになってあわてても、たぶん手遅れでしょう。

人類が今後も生き残りたいと望むのなら、人工知能に「自己学習」「自己改良」「自己複製」の能力を与えることを禁止する必要があります。どうやったらそんなことが可能か、まったく見当もつきませんが。
(2016年4月)