無と無限

 20261025

ほぼ誰にも伝わらなさそうなことを書きます、大変すいません。

世界を「ある」ものと「ない」ものに分けたとして、そのうちの「ない」ものについて、最近よく考えます。
その「ない」ものの「なさ」にはいろいろなグラデーションがあります。今はないけれど明日にはあるかもしれないものから、未来永劫絶対にありえないものまで。

とくに絵を描くときに考えること。
第1象限「目に見える」、そして「ある」もの
第2象限「目に見えない」、そして「ある」もの
第3象限「目に見える」、そして「ない」もの
そして、第4象限「目に見えない」、そして「ない」もの。
この第4象限の深淵の恐ろしいほどの深さについて。

第1から第3象限は、それぞれいくらでもある。無限にありますね。でも、第4象限の大きさに比べたらそれらは「無」と同じです。これは「すごく小さい」という意味ではありません。数学的に厳密な意味での「測度ゼロ」つまり「無と同じ」です。無限にあるにも関わらずです。
この対比を数学的に表現すると、第1から第3象限の濃度は有理数の領域の濃度、第4象限は無理数の領域の濃度に例えることができそうです。無理数の存在の大きさに比べたら有理数は(無限にあるにも関わらず)無に等しいのです。
ちなみに、人類が初めて無理数を発見したとき、それは神さまが間違えて作っちゃったものだからと口外禁止になったという言い伝えがあります。また、無限がそのさらに上の階層から見ると無に等しくなるという、無限の無限を証明、のみならず、その階層の数までが無限大であるということを証明してしまったカンターさんという人は、当時の数学界から狂人扱いされて引きこもってしまったそうです。

絵を描くとき、「目に見えない」けれど「ある」ものを描こうとする、これは多くの人にとって可能です。これを達成するには、「目に見える」ものを徹底して見る、その先にそれは立ち現れてくる。
さらにその先、「目に見えない」し、「ない」ものを描こうとすると、「目に見えないけれどあるもの」をさらに凝視したその先にそれが立ち現れてくる。と思いきや、それは立ち現れてこない。第4象限の「描けなさ」「届かなさ」を思い知らされるばかり。
ひとたびそれを思い知ったあとは、第1から第3の象限が無に見えてしまって、でもそれは誰にも伝わらなくて、一人でただ震えています。

うまく言えませんが、
こうなってはじめて、「無限」と「無」との関係の理解が、数学と芸術の両方の領域においてつながるような気がします。
自然の摂理の不思議さに鳥肌が立つ学問といえば、数学がその筆頭だと思います。 芸術も自然の摂理の不思議さ美しさを捉えようとするものです。ところが数学と芸術は、根っこがあまりにも深いところでつながっているため、両方を行き来するのが本当に難しい。「放物線は美しい」とか「黄金分割の理論はこうだ」とか、そんな浅いものではないです。
これは自然の摂理の底知れなさを言語化できない歯がゆさに一人で身悶えしなければわからないことかもしれません。