本棚ギャラリー

20160402
茅野駅前の小さな書店で、小さな作品展に出展しています。
津金美由紀さんとの二人展です。

◼︎会期 5月28日(土)まで、日曜定休
◼︎時間 9時〜20時(土曜、祝日は19時まで)
◼︎会場 矢崎書店内(茅野駅東口、茅野市民館向かい 電話0266-72-2992)

 ブースはこんな感じ。まったく作風のちがう二人の作品がなんだかうまく収まっているのが不思議です。つがねさんの作品も素敵ですよ。おすすめは戦時中の手紙をリメイクした、言葉にできない思いの詰まった作品。

 作家のおすすめの本の紹介もしています。

さらに、期間中に書店で本を買ってくださった方には作家のオリジナルブックカバーがついてくるのです。

今日のお絵描き

20160319
今日のお絵描き。
お題は古楽祭。ちょっと妖怪祭りが入ってるけどまあいいか。




酸素はカネにならない

20160306
無料で二酸化炭素を吸収して酸素を生み出してくれる魔法のようなシステムの森林を壊して、太陽光パネルを設置するという本末転倒は、つまり

・世の中の価値がすべてカネという尺度に一元化されてしまっている
・電気はカネになるが酸素はカネにならない

というふたつの驚くべき事実が招いた現象なわけです。。。。

カネという尺度を廃止するか、酸素がカネになるようにするか、電気がカネにならないようにするか、どれかをしないと、ちっともエコではないのにエコと呼ばれている森林破壊発電のおかげで世界から酸素がなくなってしまいますね。
酸素供給を現状より減少させる行為をした場合、とりあえず「酸素滅失税」を徴収してはどうでしょうか。「酸素滅失罪」で逮捕でもいいですが。

「排出権取引」とか「炭素税」とか、温暖化ガスの排出に課金するのもいいけれど、それなら温暖化ガスの吸収の減少にもペナルティがないと片手落ちですよね。

たまには近況など

20160207
三毛猫をつくったり



 名刺デザインの注文があったり



まず売れる見込みのない抽象画を描いたり。

そんなこんなで過ごしております。

受験シーズンになると思い出す、大家さんのこと

20160117
受験シーズンになると思い出す、大家さんのこと。
札幌の貧乏アパートの、陽のまったく当たらない一室に住みつき、毎日深夜にタクシー洗車のバイトに出かけて朝帰ってくる生活をしていたころのこと。そのころ、自分が受験勉強していることを誰かに話したのは、バイト先の先輩Nさんに巧妙に誘導尋問されたとき一度きりだったはずなのだが。
大学の二次試験当日の朝。ぼくはいつものようにバイトから帰ってきた。冬の現場は寒いからがむしゃらに体を動かさざるを得ず、とても疲れていた。アパートの入口の共同玄関で靴を脱いでいると、ぼくを呼び止める大家さんの声がする。大家さんは年配の女性で、娘らしい女性と二人で玄関に一番近い部屋に住んでいる。今月の家賃を払い忘れたっけ?と思って一瞬ぎくりとしたが、どうもそういう用件ではないようで、「これ、今日持って行きなさい」といって、彼女はぼくに包みを差し出した。ぼくは事情を飲み込めずにぽかんとして、何から質問すればいいのか考えあぐねた。けれど、彼女はそんなぼくにかまわず「がんばりなさいよ」というような一言を残してすぐに部屋にひっこみ、ぴしゃりと扉を閉めてしまった。
部屋に戻って包みを開けてみて驚いた。まるでおせち料理のような、かなり豪華な手作り弁当だった。受験しに行くなら昼食が必要だということにそのとき初めて思い至った。ぼくはなぜ大家さんが受験のことを知っているのか首をかしげながらも彼女の厚意に感謝して、その弁当をかばんに入れた。(蛇足ながらーーー昼になって包みを広げたとき、深刻な問題に気がついた。箸を忘れたのである。世間的な知識や生きる力に乏しいぼくは、この弁当を今ここで食べる手段をついに思いつくことができなかった。交通費以外の余分な現金は持っていないから何かを買いに出ることもできず、激しい空腹をかかえたまま試験を終えたのを覚えている。)

不思議はさらに続いた。
その後、合格通知が届いた日か、その翌日だったか。試験結果のことなどアパートの誰とも話したことはないにもかかわらず、再び大家さんに呼び止められ、「おめでとう」といって包装紙に包まれた箱を渡された。またも不意を突かれたぼくはうろたえて、「ああどうも…」というようなあいまいな応答をしたように思う。そのときの大家さんは、前回のようにすぐにぴしゃりと扉を閉めたりはせずに、たぶん「よかったわねぇ」とか「これから楽しみねぇ」とかいう賛辞の言葉をいくつもかけてくれたはずである。でもぼくは、そういう一般的な人づきあいの技術や感覚をまったく知らないから、「どうもすいません」などといった頓珍漢な言葉をぶっきらぼうにつぶやくことしかできなかった。もちろん、前回の弁当の感想や謝辞を述べることなど思いつきもしなかった。
ちなみに箱の中身は5足か10足くらいの靴下のセットで、在学中はもちろん、卒業してからもずいぶん長いことお世話になった。

当時のこのアパートは、「アパート」というより「長屋」といったほうが実態に近い。風呂なし。玄関とトイレは共同、玄関を入るとすぐに全入居者の下駄箱が並んでいる。その先の狭い廊下の両側に粗末な板扉を隔てて六畳一間の部屋がずらっと並ぶ。電話は玄関の隣、大家さんの住む部屋の前に一台だけ。外から電話がかかってくると大家さんが出て、大声で「誰々さ〜ん電話ですよ」と呼ぶ。名前を呼ばれた住人は廊下に出て行って受話器を取る。電話をかける人は10円玉をたくさん持って、話し終わるまで一定の間隔で10円玉を投入し続ける。郵便物は玄関に全入居者分がまとめてどさっと置かれ、大家さんが仕分けをして各人の下駄箱に放り込む。貧困層向けのこうしたシステムのアパートはこのあたり一帯ではごく普通のものだ。上下左右の部屋の会話や物音は筒抜け、断熱も全く期待できない。
いま思えば、こういうプライバシーのない環境だから、大家さんはぼくが受験の申込みや手続きで郵便や電話を利用するのを見聞きして、それで受験のことを知ったのかもしれない。
それにしても、人並みに挨拶もできない小僧が毎日深夜に出て行って朝帰ってくる姿は大家さんにどう映っていたのだろう。受験生のくせになぜ夜中に出歩くのか、親兄弟はどうしたのか、どこから来たのか、などなど問いただしたい不審な点がたくさんあっただろうに、ぼくには立ち入った質問はただの一度もしてこなかった。

バイト先でぼくをかわいがってくれた先輩のNさんとともに、ひとに感謝したいと初めて思った、そして感謝の念を伝えられなかった、忘れられないひとりである。

陶芸やっちゃいました

20151226
先日、原村のとある陶芸家さんのご好意で工房にお邪魔して、陶芸作品をつくらせていただいちゃいました。

展覧会会場の芳名帳コーナーにいつも置いていた自作の木製古代魚ペントレー、非売品のつもりだったんですがどうしても欲しいという方に売ってしまったので、今回、それと同じ形で陶器のものを作ってみました。
木製もよかったですが、陶器の質感もいいです。

ちなみに釉薬は工房主さんがやってくれました。 完成品を見た瞬間に鳥肌がたつほどイメージ通り、いかにも古代魚!という感じで、もう絶対売らないぞ、と思いました。

それと、器も。
機会を提供してくださったご好意が身にしみて、味わいのあるうつわでいただくごはんがおいしいです。

本棚は人生

20151213
堅気の世界から足を洗って絵描きになると決めたとき、蔵書のほとんどを断腸の思いで売り払った。
空っぽになった本棚を見たとき、日記をつけないぼくにとって本のコレクションが、自分がどのように生きたかを示す唯一の記録だったことを悟り、自分が一度死んだ気がしたのを覚えている。
その後、必要にせまられて芸術関係の本が増えていったけれど、いま振り返ってみると、これら芸術関係の本から芸術について何かを教えられたような実感がほとんどない。むしろ、いっとき自分が捨てた自然科学の書物に図書館などで再会したときのインスピレーションには計り知れないものがあった。
あの当時、どうしても手放せなかったわずかの本がいまも手元にある。野鳥関係の幾冊かの古書、寺田寅彦、比較心理学、小泉八雲・・・手放そうか残そうか迷った記憶とともに、その頃に悩んだこと、夢中になったこと、抑えきれなかった怒り、呪詛、喜びや希望がありありと思い出される。

本棚は人生。

壁一面本棚

20151129
やっと本棚が完成〜
ふだん変なものばかり作ったり描いたりする芸術家モードで仕事してるので、きっちり四角い大工モードの仕事をたまにやるのもバランスが取れていいのか、それとも芸術には逆効果なのか、よくわからないけれど。
ちなみに背面板には妻がいい壁紙を探して貼りつけてくれました。

長さ4メートル超の板を縦引き。人生初体験。。。

ねじ式ダボというのをつけてみました。

妻は壁紙を背面板に貼りつける仕事担当。とりがいっぱいいるやつを探してきてくれました。

あこがれの壁一面本棚のできあがり〜

かぼちゃ対談

20151018
版画家太田二郎さんと、清春旅と空想の美術館の清水館長さんとの対談、「ハロウィンのかぼちゃ、冬至のかぼちゃ」を聞きに行きました。






八ヶ岳周辺の郷土史を研究している「21世紀の柳田國男」太田さんと、社会人類学専攻で世界各国を旅してきた清水さんの対談。八ヶ岳の民間伝承とヨーロッパの風習・伝説との対決といった構図で、奥の深いお話が次々と飛び出します。ほんとうに面白かったです。

 お話を聞きながら、なぜか昔読んだ小泉八雲の雪女の話が思い出され、頭から離れなくなりました。妖怪に出会った人間の立場から伝えられる普通の民話とはちがって、八雲の雪女は、人間を愛してしまった雪女の根源的な悲しみを描いた、美しくて切ない物語だったと記憶しています。

「化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である。」と、物理学者の寺田寅彦がいいましたが、人類史の最初から、ひとの心に精霊や妖怪が住んでいたのは疑いようのない事実です。おそらく言語というものがうまれる前から、彼らの存在はひとの心に影を落としていたでしょう。彼らがひとの心から追い出され、「経済」や「科学技術」という本当に恐ろしい化け物に取って代わられてしまった現代は、人類にとって空前の危機だという気がして、ぞっとします。そういっている自分も、科学技術の結晶であるパソコンを使って、こうして文章を投稿しておりまして・・・さて、人類はどこへ向かうのでしょう。


ささやかな大工仕事

20151001
住宅ローンの審査に通るだけのためにつくった壁を取り払いました。そのまま廃棄物にするのはしゃくにさわるので、使える端材をできるだけ使って工房の収納棚のために引き出しを作りました。引き出しの取っ手はそのへんに転がっていたものの再利用。