20220611
来月は二人展をやります。
今回はクラフト市などで大人気の「100匹の猫と仲間たち」高橋次郎さんと一緒ですよ〜〜
じろうさんの、「にぎやかわいい」動物たちにぜひ会いにきてください。ぼくのへんてこ生きものや陰気な抽象画もついでにみていただけたらさいわいです。
さて、どんな展示になるかなあ。がんばって制作します。
20220611
来月は二人展をやります。
今回はクラフト市などで大人気の「100匹の猫と仲間たち」高橋次郎さんと一緒ですよ〜〜
じろうさんの、「にぎやかわいい」動物たちにぜひ会いにきてください。ぼくのへんてこ生きものや陰気な抽象画もついでにみていただけたらさいわいです。
さて、どんな展示になるかなあ。がんばって制作します。
20220520
ほぼ公開制作みたいになってるトーテムポールが少しずつできてきてます。
単純作業の局面になるとずいぶんどうでもいいことを考えるものです。
最近作業しながら考えた余計なこと
↓
人類が、陸を歩くペンギンを、その歩きの下手さゆえにかわいいと思うように、海でたどたどしく泳ぐ人類をイルカが「かわいい人類ちゃん」と思っている可能性はある。
王様が裸なのは周知の事実だとして、いつ「王様は裸だ」と声をあげるのが得策か。最初に声をあげるのは危険すぎる。最後のひとりになるまで頑張る義理もない。それで、50%以上の人が声をあげたら自分もあげる、という基準を持つ人が51%いたとしたら、声をあげる人の割合が49%を超えることは永遠にないのだなあ。
みんなが幸せになる方法を教えてくれるAIよりも「今ならばれないから泥棒するのがお得」と教えてくれるAIの方が先に開発されて普及するに決まってる。金持ちだけが我れ先にそういうのを手に入れていき、我々貧乏人はますます身ぐるみ剥がされ…
あるえらい先生が「メッセージが含まれていなければアートではありません」といっていたけれど、上手に計算してメッセージを「提示」したところで「感心」されることはあっても「感動」されることはないでしょう。逆に、夕焼けをみて「感動した」という人はいても「感心した」という人はいないでしょう。アートは「機智頓才を弄した説教」でもないし「奇声を発してどれだけの人を振り向かせることができるかを競う競技」でもない。アートに「感動」するとはどういうことか、この先生はよく考え直してみるとよいのではないか。
ある表現によってたとえ傷つく人がいるとしてもあくまでも表現の自由という正論を主張する、のはおおいに結構。ただし、傷つく人へのやさしさのなさは残念に思う。やさしさは義務ではないので、やさしさのなさを正論でたたくことはできない。どこまでもただただ残念なだけ。
おやつの神さまは冬毛のたぬきのかたちをしていてほしい。
などなど。。。
20220501
プーチンの非道に対して、不十分とはいえ国際社会がここまで結束して制裁ができるとは、2月にはまったく予想していませんでした。これができるなら、チェチェンのときだってシリアのときだって今回のように制裁できたはずではないか、やっていたら今回のウクライナ侵攻はなかったのではないか。
最近の香港問題やミャンマー問題にも同じことがいえると思います。かの国々に対してろくな制裁も説得もしようとせず見殺しにしている(のみならずミャンマー国軍の軍事訓練をしてあげている日本のような国まである始末)代償は将来もっと大きな暴力となって返ってくる気がしてなりません。
一方、米英のイラク侵攻なんかになると、その圧倒的な力による非道に対して当時そもそも誰か効力のある制裁をできる者がいただろうか、やはり「道理」は「力」には勝てないのか、と暗澹たる気持ちになります。
今回のプーチンの「力」による暴挙は、さすがに国際社会も今度ばかりは「道理」を勝たせておかなければならないと考えるほどに、行き過ぎていたということでしょう。ですが、今回もし「道理」が勝ったとして。それは「道理」が「道理」であるがゆえに勝ったのではなく、「道理」に「力」を与えることができたから勝てたに過ぎない。(制裁も「力」の行使の一種ですから。)
つまり、やはり勝つのは「力」だということです。
「道理」が「道理」であるがゆえに勝つ、という現象が起きうるのは、当事者全員が「道理」は「道理」であるがゆえに勝つべきだという価値観を共有しているときだけでしょう。
勝つのは「道理」ではなく「力」であるという不条理な現実があるとして、だから自分も「力」を持とう、というのが右翼。「道理」が勝つ世界に変えよう、というのが左翼。
右翼の論理は「力」には「力」を、という堂々巡りで出口がない。さりとて左翼の目標はどうしたら達成できるのか誰にもわからない。
だから、どちらが正しいか、という議論に意味はない。
だいたいの人はその中間のどこかで、説得や駆け引きやときには恫喝を駆使して上手に立ち回って泳いでいこうとする。それが一番適応的な行動でしょう。
その中で大事なのは、現実の不条理に対して、ちゃんと「煩悶」しているかどうかなのだと思います。煩悶なき右翼はただの暴力集団だし、煩悶なき左翼はただのお花畑です。
心配なのは、憲法9条を嘲笑する人に「煩悶」が感じられないこと。
煩悶なきヤクザに憲法9条をいじられるのはぼくは耐えられません。
答えのない問題について煩悶し続けるのはエネルギーがいるものです。それをさぼって「わしは冷徹なリアリストだから不条理な現実にも動じないのだ」という体裁で威勢のいいことを断言してみせるほうがよほど楽だしなんかかっこよくみえます。でもぼくはそういう人を信用しません。
今回の戦争によって世界中が右傾化するのは避けられません。日本なんかは安倍一味が今がチャンスとばかりに軍拡論を叫んでいます。今夏の参院選はまちがいなく自公が圧勝するでしょう。なにしろ昨年あれだけの腐敗やコロナ失政を満天下に晒したにもかかわらず彼らは選挙でびくともしなかったのですから。
もしみんながほんとうに軍拡を望むなら軍拡はしかたありません。でもそのために自公政権を選ぶということは、あの腐敗と慢心と改竄と虚偽と隠蔽と格差拡大路線と経済破綻と教育崩壊と拝金主義と民主主義破壊と無能外交と反知性主義と強権的弾圧と(中略)とがもれなくついてくるということです。これらはたぶんどれも、みんなが望んだものではなく無関心が招いた副産物に過ぎません。
そして「自公政権による改憲」という悪夢が迫ってきます。自民党の改憲草案では、基本的人権が縮小されていたり、独裁を可能にする小細工が仕込まれたりしています。ただ「現状に即して自衛隊を明記しましょう」というようなものではないのです。彼らは本当の意図を後ろ手に、無害な表向きの能書きばかりを電通的手法で宣伝し、右傾化の潮流に乗って危険な改憲をするでしょう。「ナチスの手口に学べ」といった麻生の言葉そのままに。
ところで防衛についていえば、ぼくは軍拡を叫ぶ前に、戦争を避ける外交努力はいうまでもなく、食料とエネルギーの自給についてもっと真剣に考えるべきだと思います。それがほんとの国防です。そのための予算こそがほんとうの「防衛費」です。
もちろん野党が政権をとったら腐敗や失政がなくなるという保証はありません。けれど、政権交代はありうるという緊張感なくしてよい政治はありえません。
というようなことをぐるぐると考えながら生まれてくる作品がなぜ「ゲルニカ」のようにならず亀や蛙なのかなあ?
20200427
草枕社さんとの下北沢コラボ展も無事に終わりました。ほとんどぼくのためにいろんなコストを背負ってくださった草枕社さんほんとうにありがとうございました。それから来場してくださったみなさま、会場を提供してくださり店番してくださったブックショップトラベラースタッフのみなさまありがとうございました!
八ヶ岳に帰り、トーテムポールの制作にとりかかっています。トーテムポールは2年前にも作りましたが、今回は直径がそのときの1.5倍、自分史上最大の作品になります。下北沢でも展示したミニチュア版トーテムポールをもとに、その拡大版みたいなやつをつくります。我が家の前でぼちぼちやってますので、通りかかりに見かけたら冷やかしてやってください。
20220326
ぼくの好きな詩にこんなのがあります。
わたしのまちがひだつた
わたしの まちがひだつた
こうして草にすわればそれがわかる
(八木重吉「草にすわる」)
人を思索の深みに誘うのはいつの世でも「自然」と「孤独」だ。どちらか片方ではだめで、両方がいる。孤独だけが思索を深め、自然だけが思索の向きをまっすぐに直してくれるからだ。
けれど、ちかごろは「共感」とか「絆」とかが大事になりすぎて、孤独は排除されるべきものになってしまいました。「孤独をも恐れぬ信念」なんてものは、「そんなものでは生き残っていけませんよ、ほらポジティブにみんなと仲よく、すまいるすまいる!」と処世術指南の先生から笑われるような絶滅危惧種となりました。
一方、「孤独をも恐れぬ信念」があろうとも、クレムリンのかの独裁者には深い思索の境地が訪れることはなさそうです。それはもしかして、座っているのが宮殿の椅子で、草の上ではないからでしょうか。
停戦交渉や国連の会合はぜんぶ草の上でやったらどうでしょう。
というぼくのぼやきを、全然きいてくれない亀3匹と、「なにをお花畑な妄言をぬかしてやがる」という顔できいてる亀1匹 (2022) 紙にアクリル
20220308
東京で展覧会(グループ展)です。
富士見町の出版社、草枕社さんから声をかけていただいて、「吉野剛広作品展×草枕社の本たち」という展覧会をやることになりました。
ぼくの作品と、草枕社でこれまでに出版された本の展示をメインに、藤井春日さんの写真作品、太田次郎さんの版画作品も並びます。
下北沢のとても個性的な本屋さんBookshopTravellerの3Fギャラリーにて。
在廊日は未定、追ってお知らせします。
20220308
プーチンが悪者なのは間違いないが、それゆえに「NATOが正義の味方でありゼレンスキーが英雄である」というムード一色に染まるのは恐ろしいことです。
米やNATOの過去の所業だってロシアとかわらないくらいひどいですから。
それにしても、「メディアが伝えない〇〇の真実!」とか「〇〇の本当の正体!」とかいう真偽不明の情報がいっぱい流れてきて、ぼくにはなにが本当でなにがうそか、もうわけがわかりません。
そんなもの全部疑って自分で調べていたら寿命がいくらあっても足りません。じゃあどうしたらよいのでしょう。わからなさを前にして困っておろおろするべきときにはちゃんと困っておろおろすること、くらいしかぼくには思いつきません。
わからなさを抱えておろおろしながら生きるのもエネルギーが要るものです。でも、そうやってまじめに(?)おろおろしていると、何を信じて何を疑うべきか、その基準・ものさしが育って鍛えられていくような気がします。少なくとも、センセーショナルな偽情報に飛びついてだまされてしまうのはおろおろをやめたときでしょう。
なので、今日もまじめにおろおろしています。絵も描いています。
20220225
「自国民の保護であって侵攻ではない」だって。理屈とはどうにでもできるものだ。
戦争はいつも「平和のため」「自衛のため」「〇〇を守るため」といって始まる。
そう思ってみると、憲法9条があってなお「専守防衛の範囲内での敵基地攻撃も排除せず」なんて言いはじめた国がロシアのようにならない保証はない。みんながそうなりたいならしかたありませんが、少なくともぼくはいやです。
かといってウクライナのようになるのもいやですから、よーく考えて賢い政治家を選ばなければいけないと、つくづく思います。
香港問題のときもミャンマーのときもろくな制裁もせず見殺しにしてきた国際社会が、今回はどうするのか、腹の足しにならないことを、やせ我慢してでも筋を通す気があるのかないのか、よく見ておきたいです。
20220224
ロシアの意思決定ってどうなってるのでしょう。プーチンのまわりはイエスマンしかいないのでしょうか。もしロシアのすべてがプーチンの独断で決まるとしたら、プーチン一人が狂ったら世界は終わるということではないか。
そして今このとき、どこかの国の国会では与党議員が身内に質問するごますり茶番ショーをやっています。「ウェルビーイング」だの「グランドデザイン」だの、まったく中身のないおべんちゃらに余念のない太鼓持ちが時間を無駄につぶしている。血管切れそう。