20260720
人権が削られるときはいつも、「〇〇のため」といって少しずつ侵食されていく。気がついたときには、向こう三軒両隣がよってたかって口を塞ぎに来て、それでも声を上げれば特高がやってくるようになる。
1925年の治安維持法は「危険思想取り締まりのためだから一般市民は関係ないよ」といって始まったが、やがて、日常の風景をスケッチしただけで「資本主義の矛盾を暴いた」として逮捕、なんてことがいくらでも起きるようになりました。
いま、スパイ防止法を「スパイ防止のためだから一般市民は関係ないよ」といって作ろうとしていますが、彼らは「乱用を防ぐための第三者機関もつくりません、情報公開もしません、政府は常に正しいので政府への監視はやりません、悪いことには使いませんから大丈夫、信じてください」、としか言ってませんね。どうしてこんなに1925年とよく似ているのでしょう。
連中が、「民のために国がある」民主社会を、「国のために民がいる」戦前の社会に作り変えたくてしかたがないのは一目瞭然です。先日はその一環として、国旗を新しい御真影とする新しい不敬罪を赤子の手をひねるように簡単に通してしまいました。
「国論を二分する」どころか、多くの憲法学者が違憲と指摘する法案がろくに審議もされずに通っていくようなことが普通になるなら、かつての治安維持法や国家総動員法だってどんなに簡単に復活できるか、誰でもわかるでしょう。
あと、彼らは、アベスガ時代から学術会議や教育政策に手を突っ込んで、一所懸命に科学を無力化しようとしたり歴史を権力に都合のいいように捻じ曲げようとしてきました。そこへ「にっぽんすごい、外国人出ていけ」の極右層が追い風をぶうぶう吹かしているのも相まって、いまや優生学や人種科学の復活もお上の目配せひとつ、というところまできているようにみえます。これはあまり言う人がいないが本当に危険なことだと思う。
無邪気にも15年前までは、ナチスの所業を学ぶのは「ナチスと同じ過ちを繰り返さないため」だと当然のように思っていました。でもいまは、「ナチスと同じことをするために」それを学ぶ者が現れ、権力を握るに至った。かつて麻生が「ナチスの手口を学べ」と言ったのは冗談ではなかったということです。
「(昔の戦争について)反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもない」と30年前に国会で言い放った人物を首相に据えた日本と、「戦争した責任はないが、それを繰り返さない責任はある」と言ったドイツ。同じようにジェノサイドをやって同じように焼け野原になって、同じように反省した両国が、なぜ今、こんなに差が開いてしまったのでしょうか。
ひとつ救いなのは、いままで政治のことを話題にしてこなかった人たちの中に、声を上げる人が増えてきたことです。政権を何となく支持している人たちのふんわり感に対して、批判している人の声の切実さが対照的に際立って見えてくるようになりました。この差異は「支持する/しない」の二択の世論調査では出てこないですが、どのくらい支持するかを10段階くらいで答えるような調査があったら、きっとはっきりわかるんじゃないかと想像します。
市民が無関心のままだったら、たとえ高市政権が倒れても次はもっと馬鹿が政権を取るだけなので、関心を持つ人が増えたのはほんとによかったと思います。投票率世界第139位という汚名を早く返上したいものです。
画像は「はやぶさ」2026年、画用紙にジェッソ・油彩
いままでならアクリルガッシュで描いていたような鳥や獣の絵を、ここ最近は油彩で描いてみています。
