20240721
芸術は芸術を目指していては生まれない。
これは笑いに例えるとわかりやすいかもしれません。
本当の笑いは、なにか面白いものに出会ったとき勝手に出てきてしまうもので、笑おうとしてわざとひねり出した「作り笑い」とは違います。横隔膜の震わせ方は、呼吸のタイミングは、といくら知識や技術を駆使して笑い方を学んでも、「作り笑い」が上手になっていくばかりで、本当の笑いにはなりません。
芸術も同じで、いくら芸術そのものを目指しても、「作り芸術」が上手になっていくばかりで、本当の芸術にはなりません。
本当の笑いに必要なのが、笑いを目指すことではなく、面白いなにかを見つけることであるように、本当の芸術に必要なのは、芸術を目指すことではない。芸術の出所である「本体」を目指すことです。その「本体」から、やむにやまれず滲み出てくる漏出物が芸術だからです。しかし、奥さん、聞いてくださいよ、驚くべきことに、その「本体」には名前がない。
源泉たる「本体」に名前がないのに、そこからの漏出物(つまり芸術のこと)には名前をつけて、そっちの方ばかりを欲しがり、ありがたがる。のみならず、「本体」から自ずと漏出した本当の芸術と、外見だけそう見える何かを人工的に作り出そうとした、「作り笑い」みたいな「作り芸術」とを区別できずに一緒くたに「芸術」と呼び、その外側の形だけをみて細かく分類して教科書にまで載せるのが現代の文明です。
一方、芸術の概念を持たずとも、その出所の「本体」そのものにちゃんと名前をつけて大事にする文明がもしあったとしたら、そこではかえって本当の芸術が、芸術と呼ばれもせずにいたるところを闊歩しているでしょう。
たとえば縄文時代の芸術などは、少なくともぼくの目からは、頼まれもしないのにうれしそうに飛び出してきて、己の天地を満喫しているように見えます。縄文人本人は祈ったり恐れたり喜んだり苦しんだりしてそれを生み出しただけであって、「これは芸術です」とは言わないでしょう。けれど、こういうものがやむにやまれず生まれてきたということは、彼らが、祈ったり恐れたり喜んだり苦しんだりしながら、「本体」にたどり着こうとしていたということだと思います。
このような本当の芸術は、もったいぶった顔でひねり出され、むずかしい解説を聞かされて「ほー なるほど」と感心してみせなければ叱られるような、「工夫した説教」すなわち「現代アート」すなわち「作り芸術」とは対極にあるものです。
そう考えると、現代日本語では名前のない「本体」にも、縄文語ではなにか名前があったのかもしれないし、のみならず、われわれには想像もつかないような概念に名前をつけて親しんでいたかもしれない、などと想像するのも楽しいものです。
「芸術」という日本語は明治になってつくられたもので、それより前、どこでどんな概念がとんな名前で呼ばれていたか、研究するのも大変な作業のようです。つまり「芸術」という概念は古今東西普遍的な特別なものなどではない。概念の中身も変わっていくでしょうし、いつか消えてもおかしくない。
これから先、どんな言葉がどう意味を変えたり、どんな新しい語彙が生まれるのか、みられるものならみてみたいものです。
などと考えにふけりながら、さて自分はその「本体」を目指すことができているのだろうか、なにしろ名前もなくてどこにあってどんな形なのだか、さっぱりわからないので、文明が移り変わって、その「本体」の概念が言語化できる時代になったら、その時の人に判断してもらえたらいいなあ。くらいに、のんびりやっています。
画像は「古層の鳥」2024年 キャンバスに油彩