デマ 対 事実

 20241119

兵庫、ひどい選挙でした。
ネットのデマももちろんひどいが、いちばんひどいのはそれを珍しい天災のようにただ驚いたり嘆いたりしてるだけの既存メディアですよ。
たくさんの人が、ネットで「真実」に「目覚めた」と思ってしまったのは、既存メディアが「中立公正という制約があるから選挙期間中は報道できない」として、事実を事実として伝えないからですよ。兵庫の選挙でいえば、選挙期間が始まったとたん百条委員会のことをぱったりと報道しなくなったからですよ。
これのどこが「中立公正」ですか。
デマには「これはデマです」、過去の悪事には「こんな悪事をしました」、約束を破ったら「約束を破りました」、質問をはぐらかしたら「質問に答えませんでした」と、いいことも悪いことも細大漏らさず知らせるのがほんとの中立公正、投票のために必要な情報提供でしょうよ。

「中立公正のために沈黙する」という詭弁を発明して、メディアが候補者の言い分垂れ流し専門チャンネルになり果てたのは第二次安倍政権のときの菅官房長官のメディアへの圧力電話が始まりだったと思います。
圧力電話の何がそんなに怖かったのですか?
だってあなたがた、メディアでしょう?
メディアなら、「ねえねえ 政権がこんな不当な圧力をかけてきたよ!」と告発報道しようと思えばすぐにできたでしょう?
そうやってメディアが団結して圧力を跳ね返していれば、「菅が愚劣な企てをしたこともあったね」と笑い話で済んだことです。
あのときに報道の自由の使い方がわからなくて持て余して放り投げてしまって、サラリーマンとしては己が身は安泰でしょうが、そのために社会的使命は犠牲になり、今回のような大惨事を招くまでに至りました。
こんなメディアをこれからどうやって立て直せばいいのか、途方に暮れます。

ついこないだまでは、歴史でナチスの所業を学ぶのは「ナチスと同じ過ちを繰り返さないため」だと当然のように思っていました。でもいまは、「ナチスと同じことをするために」それを学ぶ人が現れた。かつて麻生が「ナチスの手口を学べ」と言ったように。
いまは斎藤のような「現代の小ヒトラー」の出現で済んでいるかもしれないが、そのうちほんとの「大ヒトラー」がどこかに現れるかもしれません。少なくともその素地はもう完成の域に達してしまったように思えてなりません。



またまた個展でーす

 20241104

おかげさまで今年は作品展が続きます。
今年最後(か、最後から2ばんめか?)の作品展が小淵沢のレストラン キッチンハートランドさんで開催中です。
1月末まで。
期間が3ヶ月と長いので、途中で作品の入れ替えをしたいなーと思っています。
よかったらランチやデザートと一緒にお楽しみください。


 


赤いジェノサイドと青いジェノサイド

 20241030

アメリカが赤いジェノサイドと青いジェノサイドのどちらかしか選べない、という地獄。
カービーがいつものあの泳いだ目で「Israel has the right to defend itself.(イスラエルには自衛権がある)」とぬかすのを見るたびにPCの画面を叩き割りたくなります。

彼らが「自衛」と言い張る21世紀のホロコーストは、史上最も詳しく記録され、史上はじめて世界中がライブで目撃しているジェノサイドです。
同胞である人類ちゃんたちは、それをどういう了見でただ指をくわえて見てるわけ?

(かいつぶり より)
 


Comeon Komatsuさんとの2人展開催します

 20241013

富士見町とバリ島を行き来して木版画を制作する小松嘉門(Comeon Komatsu)氏と、吉野との2人展です。
小松さんの木版画はぜひ実物をみて、巨樹の質感やバリの空気を肌で感じてください!
10月18日→21日
10月25日→28日
11:00→16:00

ギャラリー麓人舎にて


 


石破とかネタニヤフとか

 20241002

とうとうイランがイスラエルを爆撃したようです。第三次世界大戦が起きませんように。
今朝のNHKさん、「外交的解決をしようとしないイスラエルにバイデンはいらだっている」などと、まるで彼がいい人みたいに言ってましたが、彼はつい先週も87億ドル(円じゃなくてドルですよ)をネタニヤフに追加贈呈してましたね。そういう武器やら軍資金やらの支援を止めたらすぐに停戦できますよ。
アメリカの税金はアメリカの市民のために使ったらいいんじゃないでしょうか?

石破さん、「解散前に国会で論戦をして判断材料を提供します」って、ついこないだ言ってましたよね?それをひっくり返して、お祭りムードのどさくさで疑惑をぜんぶ押し流す作戦の「うそつき解散」。
このことだけをみても、やっぱり石破さんも、選挙前に調子の良い約束 → 当選したら知らん顔 という、安倍〜岸田嘘つき路線の延長に過ぎないことが透けて見えます。

それともうひとつ。
立憲も自民も、” 決 選 投 票 ”、したよね?それ小選挙区制の国政選挙でもぜひ導入してほしいです。類似候補の共倒れを避けるためにどっちが引っ込むかみたいな駆け引きほど不毛なものはこの世にそうそうないですよ。
でも共倒れしてもらってうれしいのは自民党なんだから、自民党政権がやるわけないよねー。やっぱり政権交代は必要ですねー。 



個展始まりました

 20240830

安曇野のギャラリー雨の樹さんでの個展が始まりましたー

天気が不安定な中、初日から足を運んでくださったみなさま、ありがとうございました。

9月9日の最終日まで、みなさんを楽しませるべく、作品たちががんばってくれます。
よかったらぜひお越しください。

隣の部屋がカフェコーナーになっていて、窓からの眺めが気持ちいいです。
そこにも作品がありますのでお茶を飲みながらゆっくりご鑑賞ください。


 




もうすぐ個展

 20240827

安曇野のギャラリー雨の樹さんでの個展が30日からです
台風10号さんも見にきてくれると言ってます


 


あおばずく

 20240823

「「嘘をつかないで」
「質問をはぐらかさないで」
「法律を守って」
といっただけでどうして「左翼」といわれなきゃいけないのかなー

まあ、わしゃーもともと左翼だからいいんですけども。

と首をかしげるあおばずく(ひな)」

紙にアクリル2024年


 

個展のご案内

 20241816

個展のご案内です。安曇野のギャラリー雨の樹さんにて。
詳しくはDMの画像参照。
作品いっぱい作ってる最中です!

 




本体

 20240721

芸術は芸術を目指していては生まれない。

これは笑いに例えるとわかりやすいかもしれません。
本当の笑いは、なにか面白いものに出会ったとき勝手に出てきてしまうもので、笑おうとしてわざとひねり出した「作り笑い」とは違います。横隔膜の震わせ方は、呼吸のタイミングは、といくら知識や技術を駆使して笑い方を学んでも、「作り笑い」が上手になっていくばかりで、本当の笑いにはなりません。
芸術も同じで、いくら芸術そのものを目指しても、「作り芸術」が上手になっていくばかりで、本当の芸術にはなりません。

本当の笑いに必要なのが、笑いを目指すことではなく、面白いなにかを見つけることであるように、本当の芸術に必要なのは、芸術を目指すことではない。芸術の出所である「本体」を目指すことです。その「本体」から、やむにやまれず滲み出てくる漏出物が芸術だからです。しかし、奥さん、聞いてくださいよ、驚くべきことに、その「本体」には名前がない。

源泉たる「本体」に名前がないのに、そこからの漏出物(つまり芸術のこと)には名前をつけて、そっちの方ばかりを欲しがり、ありがたがる。のみならず、「本体」から自ずと漏出した本当の芸術と、外見だけそう見える何かを人工的に作り出そうとした、「作り笑い」みたいな「作り芸術」とを区別できずに一緒くたに「芸術」と呼び、その外側の形だけをみて細かく分類して教科書にまで載せるのが現代の文明です。
一方、芸術の概念を持たずとも、その出所の「本体」そのものにちゃんと名前をつけて大事にする文明がもしあったとしたら、そこではかえって本当の芸術が、芸術と呼ばれもせずにいたるところを闊歩しているでしょう。
たとえば縄文時代の芸術などは、少なくともぼくの目からは、頼まれもしないのにうれしそうに飛び出してきて、己の天地を満喫しているように見えます。縄文人本人は祈ったり恐れたり喜んだり苦しんだりしてそれを生み出しただけであって、「これは芸術です」とは言わないでしょう。けれど、こういうものがやむにやまれず生まれてきたということは、彼らが、祈ったり恐れたり喜んだり苦しんだりしながら、「本体」にたどり着こうとしていたということだと思います。
このような本当の芸術は、もったいぶった顔でひねり出され、むずかしい解説を聞かされて「ほー なるほど」と感心してみせなければ叱られるような、「工夫した説教」すなわち「現代アート」すなわち「作り芸術」とは対極にあるものです。
そう考えると、現代日本語では名前のない「本体」にも、縄文語ではなにか名前があったのかもしれないし、のみならず、われわれには想像もつかないような概念に名前をつけて親しんでいたかもしれない、などと想像するのも楽しいものです。

「芸術」という日本語は明治になってつくられたもので、それより前、どこでどんな概念がとんな名前で呼ばれていたか、研究するのも大変な作業のようです。つまり「芸術」という概念は古今東西普遍的な特別なものなどではない。概念の中身も変わっていくでしょうし、いつか消えてもおかしくない。
これから先、どんな言葉がどう意味を変えたり、どんな新しい語彙が生まれるのか、みられるものならみてみたいものです。

などと考えにふけりながら、さて自分はその「本体」を目指すことができているのだろうか、なにしろ名前もなくてどこにあってどんな形なのだか、さっぱりわからないので、文明が移り変わって、その「本体」の概念が言語化できる時代になったら、その時の人に判断してもらえたらいいなあ。くらいに、のんびりやっています。

画像は「古層の鳥」2024年 キャンバスに油彩